2017年09月13日

経営の哲学(知恵)1

私は哲学=知恵(の集積)と考える。

経営の場には多くの知恵が必要だ。
先日、大企業におけるコンサルが終わり、指導会の場で、15:30ころから一間ほど、管理者と懇談した。彼は「若者の考え方が違ってきた。このままで会社が運営できるのだろうか、不安だ」という。私は彼の考えに同感だ。この管理者の考えに、若者も含めて、多くの人に異論がないだろう。

さて・・・、どのような知恵(哲学)を出したらいいのだろうか・・・。
経営の根幹は人間である。会社はコミュニケーションで成り立つ。閉鎖的な性質の若者の集積のままで企業の成長は望めない。知恵(哲学)を出し、この難局を乗り切らなければいけない・・・。

posted by sakonjqs at 09:28| 哲学物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月10日

受け止めの違い3

政治とか、宗教とかは人の精神に密着した領域である。よろこび、悲しみに根を下ろしている。したがって、信じるか、信じないか、である。路上で宗教を説く人がいる。その人と話しても妥協点を見いだせない。その人は信じているのだし、私は信じていないのだから、これはもう私の「負け」なのだ。

でも、哲学は違う。
哲学=知恵(の集積)である。デカルトだってそうだ。彼は「方法序説」のなかで「私はこんなふうにモノを考えた。この考え方で多くの問題を解くことができた」と自分の知恵を披瀝しているにすぎない。彼は確信にたどり着いたが、信じるとか、信じないとかの次元ではない。
デカルト(が生きていれば、彼)と議論することは可能だ。デカルトは「あ。これはマチガイでした」という余地がある。事実、現在にデカルトが生きていたら、彼の物理学に関する認識の大部分は間違っていることを認めるだろう。


posted by sakonjqs at 07:42| 哲学物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月09日

受け止めの違い2

ビジネスの世界では、宗教、政治の話はしないほうがいい。それらの話題は個人の精神に深く根を下ろした内容だから、どんなに話し合っても、合意はもちろん妥協点がないのである。やがて感情的になってしまうのである。

哲学はどうだろうか?
例えば、私が「日蓮は良いですよ。一度は『立正安国論』を読むべきです」というと、それを聞いた人は私に奇異な目を向ける。あるいは「マルクスの『資本論』は絶対読むべきです」というと、それを聞いた人は、やっぱり私を奇異な目で見る。

哲学も妥協を見出せない領域なのだろうか?

posted by sakonjqs at 17:24| 哲学物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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