2020年01月19日

3 出会い・入門

道元が京都・深草で不遇をかこったのには訳があった。

道元は建仁寺という大きな寺から中国(宋)へ送り出されたのだが、一人ではなかった。明全という僧と二人であった。明全は、ナンバーツーであったが、実質的に建仁寺を統括する「実質ナンバーワン」であった。彼の師は死期にあった。師は自分の死期を知り、「自分をみとった後に中国(宋)へ旅立ってほしい」と明全にいった。しかし、老師をみとることなく、明全と道元は出かけたのである。

明全は修行中に中国で亡くなった。道元は遺骨をもって、1227年、建仁寺に戻った。あしかけ5年である。この間に、明全の師はなくなっていたし、建仁寺は、出発時にナンバースリーの僧がナンバーワンとして統括しており、戻った道元は歓迎されなかった。道元は居心地が悪かった。

もう一つ理由があった。建仁寺は栄西が中国で学んだ禅宗を広めるための総本山であったが、その趣旨に同意できなかった。道元は、自分の学んだ仏教こそが釈迦依頼の正統な仏教であり、それを日本で広める必要があると感じた。すなわち、建仁寺から離れてゼロから始めなければいけないと感じたのである。

posted by sakonjqs at 05:21| 正法眼蔵随聞記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月18日

3 出会い・入門(1)

懐奘は、1227年、けったいなうわさを聞いた。
摂関家の息子やというのに深草でぶらぶらしてはるわ。宋で修行したそうや。それなのに、なんやろ。

懐奘は「なんだろう? 覗いてみるか」と思った。

懐奘は、1207年、京都に生まれ、1206年、18歳で出家した。苦しい修行をして、印可(現在の大学でいえば卒業証明)を受け、さらなる修行をめざしていた。あわよくば檀家があり収入の安定した寺に就職することも考えながら放浪していた。


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2020年01月17日

2 方法(4)

道元は炊事係に連れられて天童山の寺に入門した。
道元は「苦しい修行をし、それを超えると、悟りの境地にいたる」という考えはマチガイであって、日々の暮らしの中にすべてがあることに気づく。道元の若いころからの疑問である「すべての人に仏性があるのであればなぜ人は修行しなければいけないのか」に答を見出した。すなわち、確かに仏性をもっているのだが、それは潜在的な仏性であって、顕在化するために修行が必要なのだ、というものである。

修行は、背筋を伸ばして座り、静かにする。座禅という。目を半開きにし、ゆっくりと呼吸する。最初のうち、頭には、雑念が生じる。やがて雑念を追い払う・・・というか、雑念と仲良くなることができる。

これは仏教である。現在の自分を是認する。自分に関係する人たちの幸せのために行動する。結果として自分が幸せになる。それまでの道元は一般社会の考えをもっていた。すなわち、現在より豊かに(または、賢く、高い地位に・・)なり、豊かさをとおして幸せになる考えである。結果として他人との競争と軋轢が生じ、社会は弱肉強食にもなりかねない。

1227年、道元(28歳)は帰国する。京都の極楽寺の近くに住んだ。


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