2014年06月30日

第6章 鹿を追い払う


ジョウ:前回は龍門という話でした。出家という行為が大事で
   ある、出家することによって仏道を悟ることができる、
   という話でした。
   このようにして仏道を究めた人の行いには、そうでない
   人に比べて、違いはありますか?
ゲン:そう。恵心僧都(えしん・そうず)という人がいた。あ
   る日、寺の前庭に鹿がいた。草を食べている。恵心僧都
   はそれを追っ払った。
ジョウ:え?
ゲン:そう、追っ払った。それを見ていた寺の僧は「師はどう
   して慈悲のない行為をするのか」と批判した。恵心僧都
   は次のようにいった。「そうではない。もし、私が追っ
   払わなかったら、誰かが鹿をとらえ、殺して、肉にして、
   食べてしまうだろう。だから、私が追っ払って山に帰し
   たのだ」と。
ジョウ:恵心僧都に深い心があったのですね。

左近コメント:
上の話と関係ありませんが、こんなことがありました。
人間が像の密猟をすることによって像が絶滅の危機にあるというテレビを見たことがあります。「アフリカの人はひどい人間だ」と思いました。さらに見ていると、捕まえた密漁者の発言が出てきました。密漁者は「家族に食べ物を与えたかった」と言います。さらに、テレビは続きます。その象牙はヨーロッパ、日本など先進国で加工され使われます。その需要にこたえている訳です。問題は根が深いと気付きました。


posted by sakonjqs at 04:48| 正法眼蔵随聞記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月29日

第6章 龍門


ゲン:こんな話がある。海のなかに龍門といわれるところがあ
   る。そこは波が高い。魚は、そこを通れば、皆、龍にな
   るといわれる。
ジョウ:ほお。それで龍の門というのですね。
ゲン:私はその場所が、特別、波が高いわけではないと思う。
   水はおなじく塩っ辛い普通の海水だろう。それでいて、
   不思議なことに、魚がそこを通ると龍になる。そこを通
   ることによって、うろこが変わるわけではないし、体も
   同じでありながら、龍になる。
ジョウ:はあ。
ゲン:私たち僧の儀式にも同じことがいえる。学びの寺に入る
   と、必ず、仏となり、祖となるのである。食べ物も世間
   と同じだ。衣服も同じだ。ひもじい思いも世間と同じだ
   し、寒さも同じだ。ただ頭髪を剃り、袈裟(けさ。イン
   ドから伝わった僧の衣服)をきて、一日二回の食事(正
   午の食事+早朝の粥)をする。これが違う。この違いに
   よって僧になる。
ジョウ:はい。
ゲン:仏になるとか、祖になるとか、遠くに求めてはいけない。
   修行の寺に入ることと入らないこととは、あの龍門を通
   過することと通過しないことの違いと同じだ。次のよう
   なことが、世間では、言われている。「私は金を売って
   いる。しかし、誰も買ってくれない」と。ブッダの開拓
   した道もこの話と同じだ。ブッダは道を開き、その教え
   を開示している。常に与えている。しかし、人が求めよ
   うとしない。仏道を得るために素質が優秀である必要は
   ない。ふつうの人間が悟りを開くことはできる。
ジョウ:そうですね。
ゲン:素質ではない。一生懸命に取り組むか、怠けるか、その
   違いである。取り組む態度の違いは志しの違いによる。
ジョウ:そうです。人間は、青年・成年のとき、この状態がず
   っと続くと思いがちです。しかし、あっという間に老人
   になり、死が来ます。人間としての生をうけたあいだ、
   一瞬間とも、時間を無駄にしてはいけません。
ゲン:昔の人はこんなことを言った。「倉庫にすむねずみはお
   なかがいっぱいになったと思うことがない。田を耕す牛
   は草をいっぱいたべたと思うことがない」と。どういう
   意味かというと、穀物に囲まれているし、草はいっぱい
   あるが、自覚しないから、いつもひもじいと思う。人も
   同じだ。仏道のなかにありながら、自分の人生が満たさ
   れない。財産とか名誉をもとめる気持ちを捨てれば、一
   生涯が安楽になる。

左近コメント:
私たちのまわりには、友人になりうる人がいっぱいいるし、物質的豊かさを保証する仕事がいっぱいあり、将来の幸せをえるためのチャンスに満ち溢れているのでしょう。残念ながら、それが見えないのです。



posted by sakonjqs at 05:51| 正法眼蔵随聞記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月28日

第6章 今日、このとき(2)


ゲン:仏教界においても、他の領域においても、名をなした人
   のすべてが筋骨隆々であったわけではない。志に従って、
   他を顧みず修行にはげんだ。もちろん、心配ごとはある。
   しかし、大きな志に会えば、小さな心配ごとは忘れる。
   仏教の悟りを開くことはもっとも大きなことだ。日頃、
   身の回りでいろいろなことが発生するも、それらは忘れ
   てしまう。
ジョウ:はい。昔から「光陰は矢のように早く過ぎ去る。むな
   しく過ごしてはいけない」と言われます。病気を治そう
   とするも、苦痛が激しくなり、いくらかでもよくなった
   時に修行しようと思う人がいます。そんな考えはダメで
   す。そうではなく、「今、苦しい。この先、もっと苦し
   くなるかもしれない。今のうちに修行しよう」と思うべ
   きです。苦痛が激しくなってきたら、「苦痛が激しい。
   この先、死ぬかも知れない。死を迎える前に修行に励も
   う」と考えるべきです。病気は生涯付いてまわります。
   健康の方向に向かうこともあり、悪化の方向に向かうこ
   ともあります。それを判断基準にしてはいけません。
ゲン:仏教を修行するものは、居所を整備し、衣鉢を整え、そ
   の後で托鉢に回ろうと思ってはいけない。たいてい貧乏
   だ。そのような準備ができるはずはない。準備をするだ
   けでむなしく生涯を終える。衣鉢は僧のかざりだ。衣鉢
   などなくても托鉢を含めて修行はできる。
ジョウ:はい。そうですね。
ゲン:真の仏道修行者は、衣鉢がなくても修行できるし、あれ
   ばあったで修行できる。なければ修行できないなど、あ
   りえない。
ジョウ:病気も同じです。病気を苦にすることはないし、だか
   らといって、「いっそ死のうか」と考えることもありま
   せん。その時に状況に合わせて行動すればいいのです。
ゲン:仏道のために命を惜しんではいけない。さりとて、命を
   捨てる必要もない。薬が効くと言われれば、その薬を飲
   むのも悪くない。しかし、薬がないから修行できないと
   決めつけてはいけない。

左近コメント:
今回の話には、ただただ、頭を下げるだけです。私の過去は「なんと言い訳の多かったことか」と反省します。


posted by sakonjqs at 05:05| 正法眼蔵随聞記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする