2017年09月08日

受け止めの違い

先日、ある偉い方と哲学の話をした。ま、一言で言えば、「デカルトをどんなふうに受け止めるか」ということ。
その方は「西洋が壁にぶつかっているが、その元凶はデカルト的な思考にある」というふうに言う。私はデカルトはモノの考え方を提供した哲学者であり、肯定的に理解していたので、そのようにしゃべった。意見がまったく合わなかった。

こんなことがあるんだ・・・。意見が違って、どこまで話しても妥協点がないということが・・・。



posted by sakonjqs at 16:56| 哲学物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月27日

細分化の功罪

デカルト「方法序説」に次のことが書かれている。
  第二。私が吟味する問題のおのおのを、できるだけ多くの、
  しかもその問題を最もよく解くために必要なだけの数の、
  小部分に分かつこと。

この規則でずいぶん助けられた。大きな問題であっても、まずちっちゃな問題にとりかかる。すると、全体がくる。

これを推し進めていくと、というか、自分のやり方が細分化になれてしまうと、実は由々しき問題が生じる。どういうことかを説明しよう。
一つの場を考える。その場に「私」「あなた」「贈り物」がある(いる)。私があなたに贈り物をあげる。次の二つの考えが私に浮かんでくる。
  A:
   私とあなたは別の人間。贈り物をあげた。
   あなたは私に何らかのお返しをするべきである。それが礼儀だ。
  B:
   私と言い、あなたと言い、全体に属している。
   あなたが幸せになることは私が幸せになることだ。

デカルトの細分化に関する考えは上記Aの考え方になるのではないだろうか。
欧米が行き詰っている。欧米は科学的思想に立脚している。科学とは、デカルトの哲学を土台にしている。どうしても、細分化する(ある領域を定義し、その範囲で究明し、解決する)。無理が生じるのではないだろうか。

posted by sakonjqs at 10:50| 哲学物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月16日

これも、幸せ・・・

災いとか、失敗とか、これらを避けることも幸せなのだろうか・・・? そもそも「幸せ」などという直接的な感情は最近発生したものではないだろうか? 昔は喜怒哀楽といった。このなかの「喜」も「楽」も幸せとはちょっと違うように思う。

災いとか、失敗を避ける方法を過去の哲学者はいっぱい考えた。孔子は論語のなかで言っているし、ルネ・デカルトは哲学原理のなかで言っている。孔子もルネ・デカルトも私たちに多くの知恵を残してくれたが「幸せになる方法」は述べていない。

現代において、多くの人は、「どうしたら幸せになることができるのか?」を考える。それって、新しいことのように思う。
posted by sakonjqs at 05:53| 哲学物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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